<囲碁> 地域の囲碁大会で、碁の秀才教育を受けている小学生を力でねじ伏せました。対局後、解説なんていうおこがましいことじゃなく感想を述べていたら、引率者に叱られました。「変な手は教えないで下さい」。
変な手を打つ人間がいっぱいいる囲碁大会には参加しなければいいと思いませんか?
○○熟だの△△教室で囲碁を本格的?に勉強している子供たちは、俗悪な手を打つ町方の人間とは接触させないものなんですかねぇ。
どう思われますゥ?
教育の二面性というかアンビバレントというか、そんな問題ですね。
他の2名の回答者が『引率者が間違っている』という立場に立たれているので(それも必ずしも間違っていないことは認めつつ)、逆の意見を述べます。
たとえば、人に裏切られたり騙されたりということは、誰にでも一度や二度はありますね。そういう経験を積んで、人を見る目を養ったり、人を信じることの難しさやすばらしさを学びます。また、その時に感じた苦痛から、人の信頼を裏切らないことの大切さも学ぶのです。
そんな時、親から『社会なんてそんなものだよ。騙されるお前が悪い。』と言われたらどうでしょう?子供なら、その言葉を容易に胸に刻み込んでしまい、人を信じることのできない人間になってしまうのではないでしょうか。それだけならまだしも、『世の中そんなものなら、自分も、自分より馬鹿なやつを騙してやろう』などと考えてしまうかもしれません。
あなたが、『解説なんていうおこがましいことじゃなく感想』のつもりでいった言葉でも、子供にとっては大人の・自分より強い人の言葉なので、『解説』に聞こえることは十分考えられます。ことによると『指導』と取っているかもしれません。
碁を打っていると、変な手・俗筋・無理手・騙し手・時間稼ぎ、それこそいろんな手を経験します。それを一つ一つ跳ね返してこそ、真の実力です。ただ、あとで『感想』だか『解説』だか『指導』だかが入ると、その変な手・俗筋・無理手・騙し手・時間稼ぎが、ただしい手であると(子供に限らず)思ってしまうことが多々あります(あなたも成長の一過程で経験していることでしょう)。
引率者は、そういう子供の教育の怖さを理解して、「変な手は教えないでください」といったのではないでしょうか。
引率者の叱り(俗悪な手)≦teisetsuinnさん=奇手・妙手でもなんでもなくいわゆる本手であった。が正解であると回答します。
算式根拠
①teisetsuinnさんの方が明らかに上手であった。
②teisetsuinnさんの思い(気遣い)によっては=にもなる。
(追伸)teisetsuinnさんの質問に対する回答者の皆様のご回答、「囲碁」という単語を除くと立派論文にになりますね(笑・・・失礼)。勉強になります。
引率者が間違っていると思います。囲碁の超初心者ならいざ知らず
囲碁大会でしかも英才教育を受けている将来性ある子供の才能を
伸ばしたいのなら、棋風の異なるタイプの打ち手とどんどん打たせるべきでしょう。
本当にその子に才能があるのなら、すぐに追い抜いていくと思われるからです。
俗悪な手でも相手が正しく対応できなければ、よい手に変り得ます。
有能な指導者なら負けた子の棋譜をその子と共に検討してやり、敗因を
探り出し次は勝てるといって励ますでしょうね。
正統的な手を打つ人も変な手を打つ人も潰せるようでなければ、本当の実力が身についたとはいえません。
英才教育とは、知識をたくさん詰め込むことだけではありません。それだけでは、強くなれません。それを知る機会として、俗悪な手を打つ人との対局も必要だと思います。
そもそも、ルールの範囲内で打つ手に「変」も何もないと思います。それも含めて全てが「囲碁」だと思います。
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